夏休み読書感想文4 Blue Eyed Soul
変化するものを、まるで固定であるかのように定義しようとすると足下をすくわれかねない。
たとえば漫才とコントはどう違うのか。サム・クック&ジャッキー・ウィルソンにも比肩されるエンタツ&アチャコが生み出したとされる「喋べくり漫才」。ファルセットとバリトンが交錯するようなボケと突っ込み、しかし、それが「どつき漫才」となると、コントとの境界は曖昧になる。
いっぽう「お笑い」という表現はどこまでを含むのか。噺家は「お笑い」の人なのか、色物(寄席で名が色書きされる)だけなのか。じゃあ「お笑い三人組」はどうなるのか。
始業式の日にぎりぎり提出する最後の夏休み読書感想文はブルー・アイド・ソウルの本についてなのだが、ブルー・アイドについて語るということは、その背景に「ソウルとはなんなのか」という定義を持っていないといけない。ところがこいつが始末に悪いのだ---。
ブルー・アイド・ソウル 監修:萩原健太 (ミュージック・マガジン) 1200円
1998年に出た本。今日、ブックオフ形式の古本屋を覗いたら音楽本のコーナーで500円で売られていた。ちょっと高いがまあいいかと買って帰った。
なかなか楽しく読める本なのだが、大問題につきあたる。
僕の正直な感想だが、ブルー・アイド・ソウルと呼べるものはそんなに多くない。「ソウル(のフィーリング)がある」と言ってしまったらロックの殆どが入ってしまう。
そもそもロック/ロックン・ロールそのものが黒人音楽の持つビートを果敢に取り入れた音楽だから、本人たちが意識しようがしまいが、そういう観点から評価すれば幾分なりともブルー・アイド・ソウルになってしまうのだ。
以下はあまりに大きなテーマに僕自身が挑んでしまう。夏休みボケだと思って笑覧いただきたい。
公民権運動が吹き荒れる時代、"Black Is Beautiful"のかけ声と共に、あるいはJBが喝破した"I'm Black And I'm Proud"に象徴されるように、当時の黒人は黒人であることをことさらアピールしようとした。それがシャウトであり、ファルセットだった。
だが、それは厳密には幻想だったのではないか。
黒人であっても音痴はいる。シャウトできない黒人も、ファルセットが出ない黒人もいる。リズム感の悪いやつだってもちろんいる。
いっぽう白人であってもシャウトができ、ファルセットが出て、リズム感がいいやつも稀にはいる。そんな連中がソウル・ミュージックに憧れた。
その結果生み出されたものを、幻想にとらわれる故にソウルとはできない。しかたなくブルー・アイド・ソウルとカテゴライズせざるを得ない。
赤い靴を履いていた女の子が、青い眼の異人さんに連れられていった。その女の子が幸せになって人生を謳歌したとしても、そんなことに斟酌する余地は許されない。いつまでたっても「連れられた女の子」と「連れて行った青い眼の異人さん」は交わることはできない。
そんな哀しみを持った者だけをブルー・アイド・ソウルと呼ぶべきなんじゃないか。つまり、積極的に「黒人になりたい」と思った非黒人の音楽だけをそう呼ぶべきだと思うのだ。
そうだとすれば「ブルー・アイド・ソウル」にカテゴライズされる連中はこの本に掲載されていうものから激減するだろう。極論すればラスカルズのレベルしか残らない。
この本ではキャロル・キング、トッド・ラングレン、オズモンズ・ファミリー(以上、無作為に選んだ)までをブルー・アイド・ソウルに選んでいるが、それは行き過ぎだと思う。
おっと---、ついせんもないことを書き連ねてしまった。酔いから醒めたように反省している。
ソウル・ファンが楽しめる非黒人という意味であれば、ここに紹介されている連中はすべてOKなのだ。実はオズモンズ・ファミリー(あるいはフィンガー5)っていいじゃないかと僕は感じているんだ。
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