迷訳 Broadway Sound
80年代後半にジェームス・ゴーバンのアルバムが英Charlyから出て、これはいったいなんなのだと不思議に思ったものだ。
ゴーバンは不器用(悪く言えばヘタすれすれ)ながら、タフで力の入ったシャウターで、そのエッセンスはビンテージのサザン・ソウルのもの。しかし音は明らかに新しい。といってその当時の最新録音とも思われない。
後年、彼のFame録音について知っても、やはりそのアルバムのポジションがわからなかった。
多分に僕の不勉強ゆえだが、今回このSoulscapeから出たリイシューCDの解説を読んで、ようやく意味がわかった。
The Broadway Sound Sessions Sandra Wright, James Goban (Soulscape SSCD7007)
内容はそのゴーバンのアルバムが全部と、さらにもう一人、女性シンガーサンドラ・ライトのアルバム(僕は持っていなかったが、これも89年に英デーモンが発掘したもの)全部が収録されている。
ゴーバンには失礼だが、サンドラ・ライトが圧倒的に素晴らしい。この人の歌は相当なものだと思う。
驚いたのが"A Man Can't Be A Man (Without A Woman)"、聴き始めて思わず声が出た。ビル・コディがEpicで歌っていたあの曲。実はこのサンドラがオリジナルということになるのか----。
サンドラの歌は他の曲に比べてひとつ落ちるようにも思うが曲がいいから。というわけで今日も音貼りしておく。ええい、おまけ、ビル・コディもついでに聴いていただきましょう。
A Man Can't Be A Man / Sandra Wright
A Man Can't Be A Man / Bill Coday
↑例によってReal Player必須、一ヶ月でサーバから落とすのでお早めに。
さて、興が乗ったので、英文ライナーを訳してみた。最初は気力があって割と忠実だが後半は面倒になり意訳が多くなる。誤訳も多い筈だが、それをいちいちあげつらわないこと、お願いしますよ(笑)
70年代にさしかかり、ベテラン・プロデューサーだったクイン・アイヴィ(※訳注1)がレコード・ビジネスから身を退くことを決めたとき、チーフ・エンジニアとして彼を長年助けてきたデビッド・ジョンソンは、シェフィールドのブロードウェイ通り1307番にあったクインヴィの建物を引き継ぎ、新たなレーベル、ブロードウェイ・サウンドを立ち上げた。
このブロードウェイにおいて、最も重要な存在なのは疑いもなくジェリー・ウィリアム・ジュニアだろう。彼はその変名「スワンプ・ドッグ」として、このレーベルから出た多数のLPに作曲家、アレンジァー、プロデューサーとして桁外れの才能を発揮した。ドリス・デューク、サンドラ・フィリップス、チャーリー・ホワイトヘッド---、そして彼自身の録音は、今日世界中のソウル・ファンから「最高」という評価を勝ち得ている。
オーナーのジョンソン自身も優れた仕事を残した。それも自分のスタジオに限らず、ほかでの録音も精力的に行った。それは70年代から80年代に及び、どれも高い水準にある。どの録音においてもジョンソンはその地の最高のスタジオ・ミュージシャンを起用し、素晴らしいアレンジを施した。
彼がプロデュースしたフレディ・ノースは、そのカントリー・フィーリングを生かした完璧なソウル・ミュージックだったし、決して最良とは言えない環境のなかでクインヴィ最大のスターとなったパーシー・スレッジの録音を行った。
しかし、今回のこのCDでお聞きいただくのは、数ある名録音のなかでたった二人のシンガーだけだ。ただしこの二人、サンドラ・ライトとジェームス・ゴーバンこそジョンソンの仕事のなかで最も素晴らしいものだと言えるだろう。
単なるうわべだけの音楽ではない魂の歌、聴くたびにその繊細で微妙なニュアンスに満ちた美しくも偉大な録音。
これらは表層的には黒人が歌うカントリー・ミュージックと解説できるだろうが、ゴスペルをルーツにリズムの緩急を加えることにより深い表現を持っている。そしてそれこそがサザン・ソウルと呼ばれるものなのだ。
【サンドラ・ライト】
1948年10月1日、テネシー州メンフィス生まれ。信心深い母親に育てられ、ゴスペル・カルテット、スピリッツ・オブ・メンフィスで歌っていた従兄弟の影響もあり、幼少時からバプテスト教会(※訳注2)のクワイヤでソロ・パートを歌っていた。
クラシック音楽の教育を学校で受け、1966年、テネシー州立大学に進学、夢はオペラ歌手になることだった。しかし大学内でのタレント・ショーで優勝、サンドラはポピュラー音楽、それもソウル・ミュージックの世界に未来を見出すこととなった。
1967年、白人R&Bバンドであるキャンド・ソウルズに参加しプロとしてのキャリアをスタート。このバンドはジョー・テックスのバンドを勤め、サンドラもバック・シンガーとしてツアーを重ねたほか、ジョーの録音でもバックで歌った。
サンドラの最初のソロ録音は68年、ナッシュビルで行われた。(先に彼女はここでバーゲン・ホワイトとノリス・ウィルソンのバック・コーラスの歌入れもしている。)彼女の録音はマッスル・ショールズに持ち込まれカットされた。
"Unbelievable"(Coral 62556)は未熟で稚拙な歌ながらもなかなかのワルツ・バラード、B面の"Love Me Love Me"も同じような出来だった。この2曲を演奏しているのは実際はキャンド・ソウルズの面々だが、レコードではミュージカル・ディレクターとクレジットされている。
2枚目のシングルは翌69年、Coral 762559としてリリースされた。"Gotta See My Baby"は歯切れの良いマッスル・ショールズ・サウンドによるミディアム・ナンバーだが、ナッシュビルのライター、スティーブ・デイビスの手になるB面の"We're Gonna Make It"が素晴らしい。美しく歌われたバラードで、間違いなく初期の彼女のベストと言える出来。しかしそれでも商業的な成功をおさめるにはいたらなかった。
彼女はオペラ歌手になるという夢も捨てきれないまま、17歳から18歳の時期、ナッシュビルの有名なクラブ「ニューエラ」で歌っていた。そして彼女はこのナッシュビルでフレディ・ノースのセッションにバック・シンガーとして参加するが、これが彼女の運命を変えることとなる。
ブロードウェイ・レーベルのデビッド・ジョンソンのプロデュースによりアルバム"I'm Your Man"を完成させたフレディ・ノースは、ジョンソンにナッシュビルに行って、サンドラの歌を聴くようにとすすめた。その2週間後、ジョンソンは「ニューエラ」クラブで彼女の歌を聴き、サンドラとレコーディング契約を取り交わしたのだった。
1974年10月(※訳注3)、一週間ほどサンドラはジョンソンのもとで録音を行い、ジョンソンはそのマスター・テープを持って、知己のメジャー・レーベルを回った。最終的にスタックスのジム・スチュアートが興味を示し、"Wounded Woman"をStax 0212としてリリースするという予定が組まれた。
しかしジムはこの予定を変更し、スタックスの新レーベルであるトゥルースからTruth 3201として74年6月にリリースする。
このトゥルースはスタックスがCBSの配給下に入るためのバイパスであり、結果的には逆にスタックスの資金難を招き、このレーベルの終息につながった、いわくつきのレーベルだ。
紆余曲折はあったもののサンドラの自信に満ちた歌は曲に強い印象を残しミッド・テンポの"Wounded Woman"はヒットとなった。(B面はややリズムを増した"Midnight Affair")
だがスタックそのものは坂道を転げ落ちていった。新レーベルの成功は、そのプロモーションや配給において、経営を圧迫し、負債が表面化した。
それでもサンドラのトゥルースにおける2枚目のシングルは出た。75年1月に"Lovin'You Lovin'Me / Please Don't Say Goodbye"(Truth 3220)がリリースされた。A面はバーバラ・ウィリックの魅力的なメロディ、深い情感に溢れた詞をサンドラが囁くような声で完璧に表現するバラード、B面もまたサンドラの表現が見事なバラード。
しかし、この時点でスタックスにはもう余力がなかった。ブロードウェイとの契約によるサンドラのLPは発表されることなく封印されてしまった。
幻となったLPがようやく陽の目を見るのは1989年、英国デーモンによる発掘盤"Wounded Woman"としてだった。
この発掘にはソウル界が震撼した。
モダン・ソウル・ファン(※訳注4)には"A Man Can't Be A Man (Without A Woman)"や、素晴らしい転調が効果を上げる"I Come Running Back"が注目されたし、さらにディープ・ソウル・ファンにとっては同じく"I Come Running Back"や、偉大なサザン・ソウルというべき"I'm Not Strong Enough To Love You Again"が高く評価されたが、特にルーサー・イングラムの"I'll Be Your Shelter (In The Time Of Storm)"を改題した"I'll See You Through"が大きな話題となった。ここでサンドラはルーサーのオリジナルよりテンポを落とし、歌詞も付け加えている。深いエコーのかかったギター、ピアノ、そしてホーンズも素晴らしい。
サンドラはその後、1986年にシングルを一枚出している。テッド・ジャレットが制作し彼のレーベルTジェイから出した"(It's Love Baby) 24 Hours A Day"である。
その後、彼女はナッシュビルを離れバーモントに移り住んでいる。しかし現在も音楽シーンから離れることなく、彼女名義のバンドを率いソウルはもちろんブルースやジャズを幅広く歌っている。
彼女がいつまでもその素晴らしい歌で人々を楽しませ続けてくれることを祈るばかりだ。
【ジェームス・ゴーバン】
1949年、ミシシッピのチャールストン生まれ(※訳注5)、50年代終わりに家族と共にメンフィスに移り住む。高校時代にその才能を見出されるが、彼の歌の土台は幼少時に教会で培われたものだった。
ゴーバンの力強くタフなバリトンはゴスペル経験に裏付けられており、彼が影響を受けまた好んだのはサム・クックやオーティス・レディングらだった。
彼の最初の2枚のシングルはマッスル・ショールズにあるリック・ホールのフェイムからリリースされた。
"Wanted Lover (No Experience Necessary) / Jambalaya" (Fame 1461) と"You Got A Lot To Like / Something" (同1473) がそれで、オーティスの影響を感じさせる、サザン・ソウルの王道を行くものだった。
彼の出発点がサムやオーティスだったとすれば、彼のスタイルに影響を与えたのはウィルソン・ピケットやボビー・ウーマックといったハード・シャウターだった。
しかしこの時期の録音は商業的な成功に至らず、彼の活動はメンフィスのクラブや酒場でのステージのみになってしまう。
先のフェイム以外の彼の70年代の録音はフレットーン・レーベルの"Roland / Frumpy"があるだけで、それは出来がよいとは言いかねるものだった。
そしてゴーバンはドラマーとしてストーン・ブルーというバンドを率いるようになる。このバンドにドン・チャンドラー(キーボード)とビリー・ハーバート(ギター)というメンフィスでは名うてのベテラン・スタジオ・ミュージシャンがおり、どんなタイプの音楽も幅広くしかも的確にこなすことで、この地を訪れるトップ・シンガー達からのご指定も多い。
高名なブルー・アイド・ソウルのシンガー、トニー・ジョー・ホワイトのバックをこのストーン・ブルーが務めたことが縁で、ゴーバンの歌がデビッド・ジョンソンの目にとまり、1982年ブロードウェイ・スタジオで彼のアルバムが制作された。
この録音が1987年英国Charlyからアルバム"I'm In Need"として出されると、熱心なサザン・ソウル・ファンから高い評価を得ることとなった。
このアルバムでは古き良き時代のソウルと80年代のコンテンポラリー・サウンドが絶妙にブレンドされている。
アラバマ録音の偉大なカタログであるメル&ティムの"Starting All Over Again"(1972)や、モーリス&マックの"You Left The Water Running"(1967)のカバーは、そのオリジナルに劣らない魅力を発揮している。
しかし、なんといってもボビー・チャールズの"Jealous Kind"のカバーだろう。デルバート・マクリントンのカバーと並ぶ、歌力が魂を揺さぶる傑作だ。
"Tell You About My Love"と"Oh What A Price"はコーラスのつけかた、あるいは印象的なサビで、80年代ディープ・ソウルのなんたるかを体現した曲と言える。
このアルバム収録曲のうち2曲のみが既発で、"Jealous Kind"と"Uphill Climb"はジョンソンとバリー・ベケットの制作として1984年にエンベロープ7002としてリリースされている。
特にジェリー・ウィバーが書いた"Uphill Climb"は英国ソウル・シーンで高い人気となり、このレコードには高いプレミアムがつけられた。「ジェリーがこの曲を聴かせてくれたとき、僕は一発で気に入ったんだよ」とジョンソンは、近年のインタビューでインタビュアーのゲリー・J・ケイプに言っている。
ジョンソンによると、このレコードを出したエンベロープはモニュメント・レーベルのスタッフが作ったレーベルだったという。
「エンベロープはナッシュビルのモニュメントで働いていた男が、僕がパーシー・スレッジの『パーシー』というアルバムを制作していたときに、L.Aではじめたレーベルなんだ。このレーベルの起ち上げにジェームス・ゴーバンを出したいと言うので快諾したんだが---しかし、その男はこのレーベルを続けるだけの資金を捻出できなかったんだ。」とジョンソンは語っている。
その後のゴーバンだが、メンフィスのグループ、ザ・ハイライツのリードとして"Bad Situation / My World"をレジナルド・イスクリッジのブルー・タウンから1985年に出している。
1989年からゴーバンはメンフィスのビール・ストリートにある「ラム・ブギ・カフェ」という店でブギ・ブルース・バンドを率いて活動している。
このグループはメンフィスの音楽祭で優勝し、ゴーバンと仲間のドン・チャンドラーは「メンフィス市栄誉賞(Key to The City of Memphis)」を受賞した。
このバンドのライブCD"A Night On Beale"が出ており、この地を訪れた観光客の最高のお土産となっているが、我々ソウル・ファンにとってはジェームス・ゴーバンというシンガーのバイオグラフィの重要な一枚ということになるだろう。
また彼らはイタリアのポレッタで開かれたオーティス・レディングに捧げられたソウル・ミュージック祭(※訳注6)に参加したこともある。サザン・ソウルの偉大な歴史の現在を体現していると言えるだろう。
2007年12月 ジョン・ライドリー
◆訳注
1.クイン・アイビー=Quinvy / South Campという偉大なレーベルのオーナー
2.バプテスト教会=幼児の洗礼を認めず、成人の自由意志による洗礼を尊ぶ宗派
3.1974年10月=に録音との記述だが、レコード発売が同年6月と後に記述があり、どちらかが誤っていると思われる
4.モダン・ソウル=原文はDance Soulとあるが意訳した
5.ミシシッピ州チャールストン=チャールストンという町はいくつかあるが原文にMSとあるのでミシシッピと判断した。州の略称についてはこのサイトが詳しい。
6.ソウル・ミュージック祭=原文はSweet Soul Festival
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Comments
翻訳ご苦労様です。
Bobby Charlesの“Jealous Kind”ですか。へぇ~そんな曲もやってるんだー、と思いました。Jewel&Paula時代の(Bobby Charlesの)曲かな?。
Posted by: masato | February 10, 2008 04:43 AM
スタックス〜トゥルース辺りの話が大変参考になりました。
ありがとうございます。
【サンドラ・ライト】
Memphis Soul Rare Collection Vol.2
Memphis Soul Rare Collection Vol.3
で1曲づつ聞けますね。
-「Wounded Woman」
http://muto448.cocolog-nifty.com/blog/cat4765683/index.html
-「Lovin' You, Lovin' Me」
http://muto448.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/memphis_soul_ra_1.html
【ジェームス・ゴーバン】
Wikiではこちら、画像だけアップしてまだレビューしてませんでした。
http://wiki.livedoor.jp/golden_age_of_soul/d/James%20Govan
-「Bad Situation/The Hilights」
http://muto448.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/bad_situationth.html
画像をクリックすると拡大表示されます。
アレンジのところにJames Govanの名前が有ります。
この曲大好きなんですよ。
PS.余計なお世話かもしれませんが
David Seaの記事が書きかけのままになってます。
http://soulful.cocolog-nifty.com/soulog/2007/11/david_sea_2637.html
http://soulful.cocolog-nifty.com/soulog/2007/11/2david_sea_e965.html
Posted by: adhista | February 10, 2008 06:53 AM
masatoさん、adhistaさん、さっそくのフォローありがとうございます。
英語に暗いので意味が違っているかもしれません、あまり信用しないように(笑)
>David Seaの記事が書きかけのままになってます
うっ、痛いところを突かれた。
Posted by: Sugar Pie Guy | February 10, 2008 11:29 AM
自己レス(死語?)です。
サンドラ・ライトの"A Man Can't Be A Man"は既にCDでリイシュー済みでした。
"Sound Of The Grapevine Vol.1"(Grapevine GVCD 3019)に入っています。
そこで聴いていた筈なのに、忘れているとは---(涙)
Posted by: Sugar Pie Guy | February 10, 2008 11:00 PM