Chuck Jackson "Good Things" おまけ付き
彼の最充実期はなんといってもワンド録音。ただし80年代以降に素晴らしいお宝がある---その話はまたいずれ、として英KENTが編集したワンド時代のベストCD。
Good Things Chuck Jackson (KENT CDKEND 935)
昨日ご紹介したのも同じく英KENT編集のワンド時代のもの。アナログかCDかの違いのようだが、さすが90年に出たこっちのCDには未発表曲が何曲か含まれている。
そのなかに最高に好きなものがあるので、まずは聴いていただこう。
What's With This Loneliness / Chuck Jackson
「こんな寂しい気持ち」と歌うチャック。豪放磊落な無骨者のようでいて、一緒に泣いてくれる。
ワンド時代では"I'm Your Man"、ヴァン・マッコイ作の"I Can't Stand To See You Cry"が同系列で、大都会N.Y.の夜風が沁みるぜ、たまらん。
さて、このCDが出た90年にチャック・ジャクソンは英国に行って歌っている。その時のインタビューを交えたライナーノーツを読んでいるとなかなかおもしろい。
ちょっと気合いを入れて訳してみたのでお読みいただきたい。
Good Things / Chuck Jackson
■ゴスペル時代
チャック・ジャクソンは1937年7月22日、ノース・カロライナのウィンストン・セーラムで生まれた。3人の兄弟と3人の姉妹があったが、このなかで音楽の道を進んだのはチャックだけだった。
彼はソース・カロライナの祖母のもとで育ち11才の時に教会のクワイアのリード・シンガーとなった。
最初の音楽活動について彼はこう語る。「6才の頃、15分のラジオ番組のなかでピアノを弾き歌ったんだ」
ソース・カロライナの州大学に通ったが「その頃、人種問題による就学差別が南部で問題になったんで、それに嫌気がさして学校をやめて北部に行った。そこでクリーブランドのラズベリー・ゴスペル・シンガーズに参加した。このグループでレコードを録音することはなくて、主に南部をベースに旅公演をしていたよ」
■ザ・デル・ヴァイキングス時代
ラズベリー・シンガーズをやめた後のことについてチャックは語る。
「僕はしばらくふらふらしていた。だけどとうとうピッツバーグで仕事を見つけた。フィフス・アベニューでレコード店を経営していたジョー・エイバーバッハという男が歌手を探していて、彼に認められたんだ。
その頃の僕はチャールス・ブラウンやジョニー・エースが好きだったし、ルス・ブラウンやラヴォーン・ベイカーも気に入っていた。だけど、僕は教会でゴスペルを歌っていた。
だから最初は『僕は教会歌手だ』って断った。彼もそのときは『わかった、無理とは言わないよ』と言ってくれたんだけれど、ある日彼がまたやってきた。デル・ヴァイキングスのバリトン・シンガーのデイブ・ラーチーが空軍に召集されて脱けてしまうんで替わりに歌わないかと言うんだ。
僕は『よしやるよ』と引き受けて、デル・ヴァイキングスに参加した」
この時代のデル・ヴァイキングスはマーキュリー・レーベルと契約していたが、結局チャックが歌う録音は残されなかった。
ジョー・エイバーバッハは、チャックをデル・ヴァイキングスに所属させたまま、単独活動のマネージメントをした。
■ソロ・シンガー転身
「デル・ヴァイキングスと一緒のままじゃ未来はないとわかっていた。僕はそこに留まるつもりはなかったし、グループのみんなもわかってくれた」
その頃、チャックはジャッキー・ウィルソンの初のツアーにコーラスとして参加した。ジャッキーはチャックにこう言った。
「君はグループ向きじゃないなぁ。思い切ってグループはやめちゃったらどうだい。(ジャッキー自身もビリー・ワード&ザ・ドミノスからソロとして飛び出した)
その気があるのなら一緒にツアーに出ようぜ。アポロやアップタウンやリーガルみたいな劇場へ出るんだ。面倒は見るし、ギャラもちゃんと支払う。僕の前座としてオープニング・アクトで歌わないか。」
とうとうチャックはグループに別れをつげた。
ジャッキー・ウィルソンのバックアップを受けて、チャックはワンド(Wand)で初のシングル"I Don't Want To Cry"を吹き込んだ。
ジャッキーはチャックの力を見込みサポートを続けた。
「ジャッキーは僕を引き上げてくれた。インタビューを受けるといつも僕のことを言ってくれた。ジャッキーは面倒見が良くて、ほかにもたくさんの連中をサポートしていたけれど、僕はずっと彼から離れなかったから人一倍かわいがってくれた。お前みたいなやつは他にいないって言ってくれた。僕はジャッキーに本当に感謝しているよ」
■ワンドとの契約
アポロ劇場でのジャッキー・ウィルソンのショーに参加したことでチャックの未来は開けた。彼はフローレンス・グリーンバーグのワンド・レーベルと契約した。
チャックに目をつけたのはワンドだけではなかった。コロンビア、マーキュリー、RCAなどがチャックに接触してきた。
しかし彼は最終的にワンドを選んだ。
セプター・ワンド・レーベルのオーナーであるフローレンスとルーサー・ディクソンがこう口説いたからだ。
「『我々は小さな会社でお金もそんなにない。しかし僕らは君に賭けたいんだ。僕らは新しいレーベルを起こす、君のためのレーベルだよ。』こう言われたら、心を動かさずにはいられないだろ?
僕は小さな池の大きな魚となった。でも彼らはその池をどんどん大きくしていったんだよ」
ルーサー・ディクソンはチャックの最初のシングル曲となる"I Don't Want To Cry"を書いて持ってきて、チャックは彼らと契約を結んだ。
「僕は彼らのところで働きたかった。それに契約内容も決して悪くはなかった。何の問題もないとサインしたら、彼らは僕を夕食に誘ってくれた。それから僕は彼らの家に誘われた。フローレンスはギターを持ってきて、その曲を弾きながら歌詞をルーサーに語り出した。『I'm leaving you, cause I don't want to cry』、ルーサーは大きな声を出した。『いいぞ、いいぞ』ってね。それが僕らのはじまりだったんだよ」
■AND DAY NOW
バート・バカラックはチャックの声に惹きつけられ、ハル・デイヴィッドとボブ・ヒリアードと共にチャックのために"AND DAY NOW"を書いた。
バカラックはデモ録音をワンドに持って行ったが、ちょうどそのときチャックはツアーに出ている最中だった。
フローレンスとルーサーはこの曲を聴き、チャックが不在のこともあったしチャックは着実にヒットを出していたため、別なシンガー、トミー・ハントにこの曲を歌わせることにした。
これを知ったバカラックはノーを突きつけた。
「バカラックはこう言ったんだよ。『駄目だ。それじゃあ僕らはこの曲を君たちに渡さないよ。僕らはこれをチャック・ジャクソンのために書いたんだから。トミー・ハントに最初に歌わせ、後からチャックに歌わせるのも駄目だ』こう言われてはフローレンスも従わざるをえなかった。そんなわけで"AND DAY NOW"はトミー・ハントじゃなく僕が歌うことに落ち着いたんだ」
"AND DAY NOW"が世に出ることで、チャック・ジャクソンのキャリアに大きな変化が訪れた。
「この曲で僕は白人マーケットにも売れるようになったんだ。それまではR&B、つまり黒人にしか聴いてもらえなかった。僕のことを『ソウル』って白人たちは呼んだ。僕は史上初の『ソウル』シンガーになったんだ。
マレー・ザ・Kは1963年に僕にこう言った。『君の歌う音楽は今までのジャンルじゃ表せない。君にはソウルがあふれている。君はソウル・マンだ』ってね」
他のR&B黒人シンガーがなし得なかった白人マーケットとのクロスオーバーをチャックは実現した。
彼は言う。
「そのおかげで僕はシンガーとしてだけではなく、黒人コミュニティの間で目立つ存在になったんだ」
■ツアー時代
"AND DAY NOW"のヒットで彼のファンは増え、チャックはディック・クラークとライブ・ツアーを重ねるようになった。
「チャック・ジャクソン・レビュー」を結成し、そこにはソロモン・バークやドリフターズが参加することもあった。
チャック・ジャクソン・レビューは1963年から1972年の間、活動を続けた。
「ほぼ10年間やったね、でもそれ以上は無理だった。観客が大きな所帯のレビューにお金を払う時代が終わっちゃったんだ」
■ワンドでの不朽の名曲
チャック・ジャクソンはスタジオ・ミュージシャンではなく、彼のレビューのバック・バンドを従えてレコード録音をしていた。
ワンドでの録音はニュー・ヨークのベル・スタジオで行われたが、後に彼は54通りに自分のスタジオを持つようになる。
プロデュースはルーサー・ディクソンが変わらずつとめていたが、「ボブ・クルー、バート・バカラック、レイバー&ストーラー、ヴァン・マッコイといった連中にアレンジやレコーディング・プロデュースをまかせるようになった。でも最終的なアレンジやプロデュースの決定権はルーサーが握っていたよ」
レイバー&ストーラーは忘れがたい傑作"I Keep Forgettin"を書いた。この曲のバックで歌っているのが後のスウィート・インスピレーションズである。教会のクワイヤ直系の彼女たちはドリンカード・シンガーズを名乗っていた。ディオンヌ・ワーウィックの母、姪のシシー・ヒューストン、ディー・ディー・ワーウイック、そしてシルビア・シームウェルで、この頃の録音はすべて彼女たちがバック・コーラスをつとめた。
「共にレイバー&ストーラーの作となる"Any Day Now"とこの"I Keep Forgettin"についてスモーキー・ロビンソンはこう言っていた。『素晴らしい輝きがある。これは永遠の名曲だよ』。それを聞いて俺はこいつは頭がおかしいのかと思ったよ。実際にそんなにヒットしたわけじゃなかった。ところがこの二曲はいまだに人気があって、売れ続けているんだ」
ドリス・トロイがチャックのために"Tell Him I'm Not Home"を書いた。「僕は彼女と知り会って、そうしたら彼女がこの曲を書いてくれた。いい曲だと思った。ルーサーが『よしこれを録音しよう』って言ったんだ。そのあとドリスはソロ・シンガーとしてデビューして、一緒にツアーに出た」
ドリス・トロイはこの"Tell Him I'm Not Home"のバック・コーラスに参加し、チャックの歌に合いの手を入れている。
■マキシン・ブラウンとのデュエット
60年代中頃、チャック・ジャクソンはマキシン・ブラウンとのデュエットを何曲も録音した。
「マキシンと僕はツアーで一緒だった。そして彼女もセプターと契約した。だから僕が誘ったんだ。一緒に歌ってみないかって、それでまあ即席のデュエットをやってみた。二人で"Hold On I'm Cominを歌った。それを聴いたスタッフが、こりゃデュエットのアルバムを作るべきだと言い出した。
そのスタッフというのはアシュフォード&シンプソンさ。"Baby Take Me"はこの二人が作ってくれた曲だ」
■セプター=ワンドを離れモータウンへ
167年、チャックはワンドを離れモータウンと契約した。
「スモーキー・ロビンソンとベリー・ゴーディの二人とは、彼らがモータウンを作る前からの友人だった。彼らがアンナ・レコードをやっていた頃に会ったんだ。そのときはハーベイ・フークアもいたね」
この三人は1959年からジャッキー・ウィルソンに曲を提供するなど、一緒に仕事をはじめていた。
「それで、よく一緒につるんでいたんだが、スモーキーとベリーが、もし僕がセプター=ワンドを離れるんだったら、こっちに来いよと言ってくれた。
そんなときにフローレンスと一悶着あった。ディスク・ジョッキー・コンベンションに参加して歌うことになって僕は自分のバンドを連れて行きたかったんだが、彼女がバンドにはお金は支払えないというんだ。
それで僕は言った。もう僕との契約は終わりにしてくれってね。
すると彼女は、幾らだったか多額の違約金を支払わないと契約は打ち切れないと言う。そこでスモーキーに連絡をとった。彼は「よし、ベリーに相談する」と言って、30分後にはワンドとの契約を終わりにする違約金を持ってきてくれたよ。
僕は現金小切手を持ってニューヨークの彼女のオフィスに行った。彼女は泣きながら、しかしもう後戻りはできない、契約を終わることにするわと言った。
でも今じゃ彼女も、僕と仲違いしたのは間違いだったと認めているよ。僕のバンドのメンバーの経費500ドルをケチったおかげで、会社もおかしくなっちゃったんだからね。大きな過ちだよ」
チャック・ジャクソンはモータウンでも多くのヒットを残した。
「モータウンは絶好調のレーベルだった。僕はこの会社のスタッフたちが好きだった---でもいろいろと問題もあったね。
ある日、知り合いのディスク・ジョッキーが彼のイベントで歌ってくれないかと言ってきた。『行きたいよ、でも今は駄目なんだ、いつかなんとかできないか努力するよ』と答えると『チャック、僕は今君に出て欲しいんだ。モータウンに入る前だったら、いつも出てくれたじゃないか』ってねばる。『今じゃモータウンのシンガーなんだよ』と言ったら、こう言われた。『君は冷たいモータウンのシンガーだよ』。これにはこたえたね。2年間ぐらい悩んだよ」
チャックはモータウンを離れシカゴのデイカーと契約し"I Forget To Tell Her"を録音したが、この一曲だけを残し、ABCに移籍し、傑作"I Only Get This Feeling"を録音した。
その後チャックは短期間、フローレンス・グリーンバーグが再び興したChannelに籍を置いた後、メジャーのEMIアメリカと契約を結び、秀作アルバム"I Wanna Give You Some Love"を録音した。
1989年には、英国のイアン・レヴィンがモータウンのクラシックを再現しようとしたNightmare / Motor Cityレーベルからモダン・ソウル"All Over The World"を録音。
1990年には英国グレート・ヤーモウスで開催されたノーザン・ソウル・フェスティバルに参加するため渡英。"Millionaire","And Day Now","Beg Me","Tell Him I'm Not Home"を熱唱し若いソウル・ファンの人気を得た。
現在、チャック・ジャクソンは故郷のカロライナに戻り。リズム&ビーチと呼ばれるカロライナのソウル・ミュージックを歌っている。
O.C.スミス、チャールズ・ウォレットらに混じり今でも現役のチャック・ウィリス。ぜひこの地での活躍に注目してほしい。
1990年3月 シーマス・マックガーベイ(チャック・ジャクソンとのインタビューを交えながら)
今、訳したばかりで校正していないので誤字脱字はご勘弁願いたい。
ちょっと気になったのは、モータウンをやめた後のことで、まずデイカーで一曲だけ録音したとあるが、"Chicago Soul Survey"というCDに収録されていた"The Man Nad The Woman (The Boy And The Girl)"という曲(素晴らしい!)を知っているが、それはデイカーじゃないのかなぁ。
あとChannelなるレーベルに少しだけいた云々という記述があるが、EMIの前にニュー・ジャージーのAll Platinumに録音をしている。真っ赤なバックにサイケな衣装を着たチャックが写った70年代まっただなかのジャケのLPもあるんだけれど、なにも記載がないのは不思議。
それから最後に出てくるアイラ・レヴィン絡みの"All Over The World"はモダン・ソウルの傑作。じゃあそれは明日に。
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Comments
こんばんわぁ
初めまして。
私はバカラックさんについてのブログを書いている者です。
バカラックさんのメジャーじゃない曲(!)をメインにしてYou Tubeの動画を貼り付けて書いております。
ところがメジャーじゃない曲だけではネタが続かず四苦八苦している今日この頃であります。
この"AND DAY NOW"のエピソードを拝読させていただきまして ぜひとも私のブログに載せさせていただきたく 失礼を顧みずコメントさせていただきました。お許しがいただければありがたいのですが・・・。よろしくお願いいたします。決して不真面目なブログではございませぬ。
Posted by: まったり | September 21, 2012 11:03 PM
まったりさん。
わざわざご連絡いただきありがとうございます。
誤訳の可能性があることをお含みおき頂ければ引用、リンクは自由になさっていただいてけっこうです。
Posted by: Sugar Pie Guy | September 21, 2012 11:42 PM